札幌開成高校吹奏楽部

温故知新は、札幌開成高校吹奏楽部のOB・OGにて結成されました。
札幌開成高校は55年の歴史に幕を下ろし、2015年に「市立札幌開成中等教育学校」としてその伝統を引き継いだ新たな学校として生まれ変わりました。
吹奏楽部も、現在は「吹奏楽・管弦楽部」として生まれ変わりましたが、定期演奏会のお手伝いなどを通じて、温故知新との交流も続いております。

ここでは、私たちが高校時代に共に活動した、札幌開成高校吹奏楽部についてご紹介します。

札幌開成高校に吹奏楽の灯がともった日

15期 佐藤憲明氏

私が開成高に入学したのは昭和51(1976)年です。
北陽中時代から吹奏楽部に属し、チューバを担当していました。
この頃の高校における吹奏楽部はほとんど存在しない状況で、西高にオケがあったほかは、光星高、東海大四高、札商高、北海高など私学が中心でした。当時の開成高には、マンドリン部があり、ちょっと楽譜が読めるくらいの感じでしたが、親友から誘いがあり、マンドリンセロを担当し、定期演奏会にも出ていました。とはいえ、やはり管楽器を続けたい気持ちが強く、トロンボーンを入手し、一般団体のサッポロシンフォニックバンドに入団しました。こちらは45年目になります。

ある日、音楽室で管楽器の練習をしたいと、当時のマンドリン部顧問に願い出てみたのですが、残念ながら理解を得られませんでした。一方で、当時の野球部は道大会常連のレベルにありましたので、応援団とともに、球場に出かけることもありました。

そこで思いついたのが、応援団付属バンドの創設です。応援団の顧問でありました千北先生に「応援合戦の高度化には管楽器が欠かせない時代。そのために楽器と練習場所が必要」と論を張ったところ、理解を示して頂き、初めてTp2本とTb1本を購入していただくとともに、地理教室を活動の場として使用することを認めて頂きました。場所を確保したものの、楽器を所有している学生がまだ少なく、吹奏楽をやるには余りに難しい状況でした。

当時、CHICAGOなどのブラスロックが流行っていて、コンボ譜が使えると思い、吹奏楽経験者や軽音楽部の面々(ドラム、ギター、ベース)に声掛けしたところ、面白いね、ということになり、活動が始まりました。スタート時のメンバーは7名だったと思います。しかし、市販譜ではアンバランスになりますので、楽典の本を買い込んでアレンジをにわか勉強し、コード譜はギタリストに学び、ベーシストらと知恵を出し合いながらアレンジを行いました。

旗揚げ公演?は3年生の夏の旭丘高との定期戦で、メンバー17名で真駒内屋内競技場(現セキスイアリーナ)で、両校生に演奏を聴いてもらうことになりました。

これは衝撃的なことだったようで、特に「戦艦ヤマト」は、アンコールで2回やったほどです。他に、新入生歓迎会で校歌をツービートにし、ロック調にしたものを演奏したこともあります。一部の先生からはクレームもありましたが、生徒からはウケたように記憶しています。

~温故知新VIII プログラムに掲載した「『温故知新』に寄せて」より抜粋~

応援団付属バンドを経て同好会から部になるまで

応援団付属バンドはその後、いろいろな経緯をたどり、部活動として認められるまでになっていきます。
当時のことを、16期・19期・20期・21期の先輩が回想しています。

19期の私が高校2,3年生の時、滝沢先生が転勤されてきたタイミングが大きな転機となりました。
吹奏楽部の活動について寛容でした。というか、いろいろと応援してくれていました。

私の入学当時は愛好会で、確か1年後期で同好会に昇格して、21期でたくさんまた入ってきてくれて正式に部に昇格した記憶が…。

初代部長は20期Kさんです。私が3年生の冬に、生徒会と職員会議で昇格が認められたと記憶しています。

そうでしたね!
じゃあ初コンクールはまだ同好会だったのか…。

初コンクールは、吹奏楽部で出ました。あれは詐称だったのでしょうか。

コンクールエントリーシートへの記入は「部」としちゃったんだと思います。あの頃は学校長の職印も不要でしたしね。生徒総会に変わる決議機関が、平日の放課後に開催され、その結果を、自分のクラスで受験勉強していた私に、初代部長Kさんが報せてくれた記憶があります。だから、やはり最初のコンクールに出た年の秋か冬に、部に昇格したのではないか、と思っています。

新入生の対面式で「青い校歌」を演奏したのは,21期Hさんを迎えた時でしたか?それとも20期を迎えた時でしたか?Nさん・Tさん・Fさん・Tさん・Cさん達と演奏した記憶があります。もちろん、NさんとTさんは卒業されていました。ご一緒していただかなければ、全ての演奏が成立しなかったですよね。卒業生が学校行事に出演できたのですから、いい時代です。

青い校歌やりましたね。Cが卒業した年かと。

であれば,20期を迎える対面式でしょうか。Oさん・Kさん・Iさん・Sさん達が入学した時ですね。TさんとFさん,そして今やバリバリのジャズピアニストのIさんが3年生の時です。

「20,21期の部員がたくさん入部してくれたこと」や「コンクールに初出場で即地区代表になったこと」、そして「翌年に定期演奏会を開催したこと」なども後押しし、部への昇格が決まったように記憶していますが、何より滝沢先生の存在が大きかったです。
今、教員として仕事している私にとって、当時の滝沢先生のスタンスは驚異的であり、手本です。徹底的に生徒に主体性を持たせました。

また、吹奏楽部を続けていけた背景には、他にもいろいろな要因がありました。

  • 鈴木榮一先生という素晴らしい指導者にお世話になったこと。
  • サッポロシンフォニックバンドが全面支援してくれたこと。
  • 北海楽器やヤマハ北海道支店が支援してくれたこと。
  • 市内の学校吹奏楽の指導者(東海の井田先生・光星の坂井先生・白石の米谷先生・中学校では鹿討先生・鈴木逸郎先生・三好先生など)が、私たちを手助けしてくれたこと。

みなさんが、私たちのバンドを応援してくれました。高校生が自ら楽しんで進めている様子に、ご自身の若い頃を重ねていたようです。

※青い校歌とは、松田聖子の「青い珊瑚礁」と校歌をメドレーにしたもの

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